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SAMPLE


いずれ忘れ去られる今だとしても

 そより


 天へと伸びる水晶の塔。
 闇の戦士は衛兵の案内を断り、入り口の扉を開くと、ただ長い階段を一段一段、駆け上る。
 会いたい。
 けれど、会えなくとも構わない。
 迷っているんだ。
 己の衝動に突き動かされて今ここにいるのに、このまま時に閉ざされても構わないとすら思う。この階段が延々と続き、星見の間へ辿り着けないままずっと走り続けていたとしても、滑稽だ。
 きっとこのひとときを、心のどこかで楽しんでいるのかもしれない。
 英雄とも呼ばれた身だ。何から何までとは言わないが、頼まれたお使いをこなすだけの根性と体力はある。その体力が脅かされるずっと前から、すくみあがった胸の内が早くも抜け道を探し出そうとしていた。
 苦笑して、バスケットをひっしと抱える。
 新しい大きな包みから中身が飛び出さないように、もう一方の手で柔く表面を押さえた。
 月の形など覚えてはいないが、今は夜更け。
 外には欠伸をしながら美しい星空を見上げる人々が居た。おそらく、就寝するに相応しい時間だ。
 こんな夜更けに呼吸を乱して、一体何をしているのかと後ろめたくもある。それでも気付いた時には身体が動いていたのだから、どうしようもない。
 これは、ほんのお礼のつもりだった。
 寝覚めの早すぎる夜を満喫していたはずなのに、どうしてこんな真似をしているのだろう。


 レイクランドとイル・メグ。
 ふたつの夜を取り戻し、クリスタリウムに帰還し、アシエン・エメトセルクとの邂逅を果たしたものの。
 報告は任せろという仲間たちに促されペンダント居住館に戻ると、部屋には差し入れが置かれていた。
 それはバスケットに詰められたサンドイッチだった。
 アルバートは驚いていたが、お陰で英気は養われた。トマトも葉野菜もくたびれておらず、ふかふかのパンに挟まった卵の塩味もほどよく舌に合った。
 そうして、さる方から添えられたメモの通り、昨日は早めに寝床に潜り込んでいたはず。


 けれど、すぐに目が覚めた。
 朝を迎えるには早すぎる時間だった。カーテンから柔らかな月明かりが溢れていた。しかし体力の有り余っていた闇の戦士は、ふと数時間前に食べたサンドイッチの味を思い出して、頷く。
 美味しかった。お礼を言いたい。
 たったそれだけで思い立って上着を羽織り、ムジカ・ユニバーサリスに足を運んだ。
 クリスタリウムの夜は、人通りが少なくなるとはいえ賑わっている。光が蔓延していた時の名残か、あるいは、みな口を揃えて「美しい」と顔を上へと向けているから、興奮して眠れずにいるのか。ロスガルの顔役にちょうど会うことができたので会釈をすると、すぐに彼は「急ぎか」と声をかけてくれた。
 そっと首を振る。特に計画立てていたわけじゃない。ふと今思い浮かんだだけのことだ。
 サンドイッチのバスケットを返すついでに、何か持って行きたい。お礼に何か作りたい、と。
 しかし、いざ葉野菜を掴んでみると、途端に頭が冷めてくる。
 流石にこの時間では寝ているだろう。やめた方がいいかもしれない。商品を戻すかどうか悩んでいると、ブラギが、ああ、と何か言いにくそうに首を捻った。

「そういえば……昨日公も同じものを買っていた。それも大層ご機嫌でな。お前も今から何か作るのか?」

 続けて、彼は独り言のように呟く。

「もし公に用事があるのなら、気にせず顔を見せるといい。どんなに夜遅くとも、休んでいるところを見たことはないからな。街の誰もがそうだ。なんなら、同郷の者から説得してくれるとありがたい」

 ついでにスパジャイリクス医療館の薬でも持って行くか、どうだ。笑顔の素敵な、特徴的な話し方をする女性を思い浮かべて渋い顔をすると、初めてブラギが吹き出すのを見た。
 クリスタリウムの民はみな等しく、水晶公という人を慕っている。
 同郷だといえば詮索もされず、気を許してくれるのはありがたい。暁の面々も冒険者も、水晶公への恩義のもとに目をかけられているというわけだ。
 とはいえ、限られた物資の中でおまけを与えてくれるのは嬉しくも、少し心苦しい。買おうとした分よりも卵がふたつもみっつも多い。今回だけだ、とその後一切の口を閉ざしたふかふかの毛並みに何度もお辞儀をして、自慢の脚力を活かして大股で市場を出た。


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